TIN MACHINE
[ It's My Life Tour In Japan 1992 ]
DATE 19920131
PLACE Festival Hall Osaka Japan
LABEL helden
CODE DEN-054_5
SOURCE Soundboard
TYPE 2CD
PRICE ¥ 6,150
⇒数 量:

《 Products Information 》

1980年代のボウイとは何だったのであろうか。
最も有名なカルトヒーローだったボウイが一般的に認知され、かつてのマドンナやマイケルジャクソンと並んで最も有名なアーティストとなったのが1980年代のボウイであった。
セールス的にかつてない大成功を収め、映画にも出演し、世界的な名声を得たのがこの時期である。
元々ボウイは時代に合わせて音楽性を変遷させてきた。 その意味では80年代のディスコ・ブームに乗ったことは必然であったかもしれない。スタイリッシュで都会的な雰囲気でブロンドの美しい男が、華美なステージを縦横無尽に動き回りながら、ダンサンブルな曲を大人数のバンドをバックに軽快に歌う。
しかもその男はデヴィッド・ボウイである。
どのようなジャンルの曲もボウイの手にかかればミダスタッチのように名曲に変わる。
ヒットしないわけがないだろうという感じである。

しかし一方で、ベルリン時代からのボウイのあまりの変化に古くからのファンはついていけなかったのも確かである。もちろんファンとしては、それがボウイの選択であるならば受け入れなければいけないのだが、世間のボウイへの狂騒がどこか他人事のように思えていたものである。
おそらくボウイ本人もその空気は感じていたのだろう。
本来の自分の音楽の原点はロックであったのではないか、世界的名声を得た今、再び原点に戻る必要があるのではないか、それが本来自分が表現媒体として選んだものではなかったか。
まるでシリアス・ムーンライトやグラス・スパイダーの反動であるかのように、次にボウイが選んだのはボウイの名前を全面に出さず、あくまでバンドの一員として参加するという体裁をとった、ティン・マシーンの結成であった。 1988年、世界は次の時代に突入しつつあった。

ティン・マシーンにかけるボウイの意気込みは確かなものであった。
1992年来日した際にティン・マシーンのメンバーが揃って「タモリの音楽は世界だ」にゲスト出演した。
私もこの番組を当時リアルタイムで見ていたのだが、出演者へのクイズとしてティン・マシーンの音楽におけるポリシーを四択で選ぶ出題がなされた。
【1】マイクを使わない 【2】コンピューターを使わない 【3】ステージ上を動き回らない 【4】4分以上の曲をやらない。さあ、どれでしょう!という問題である。
もちろん正解は2のコンピューターを使わない、正確にはキーボードレスのロック、というコンセプトでバンドの音楽性が提示されたのである。また番組内では、ジャズのような即興演奏を主軸としたライヴを行なっているとも語っている。華美な装飾を施されたダンス&ポップ・ミュージックの反動から、ボウイが新たに志向したのはキーボードレスのハードなロック・バンドであった。

ティン・マシーンはボウイが中心であるが、バンド・メンバーの内の二人はイギー・ポップのバックを勤めていた実績のあるミュージシャンであり、ギタリストのリーヴス・ガブレルスは妻がボウイのツアー・スタッフだったという縁で参加している。
4人編成の硬派なキーボードレスのロック・バンド、これがティン・マシーンである。
ファースト・アルバム『ティン・マシーン』は1989年5月に発表され一定の評価を得る。
しかし世間の関心はそれがボウイのバンドであるからであって、それ以上でも以下でもなかったことが、ティン・マシーンが短期で終わった遠因となっている。
事実ボウイは自分を全面に出さず、あくまでバンドの一員として振る舞い、ステージで自身のソロ曲は一切演奏しなかった。ファンとしては肩透かしをくらったと思われても仕方がない。
ティン・マシーンのコンサートに赴き、そこにデヴィッド・ボウイがいるにも拘わらず、「ヒーローズ」も「レッツ・ダンス」も演奏しないのである。
現在の沢田研二は「勝手にしやがれ」も「カサブランカ・ダンディ」も「TOKIO」ステージで歌うことはないが、ファンの求めているものとアーティスト側が見せたいものとの乖離が最も顕著になった例であろう。

1990年、ボウイはティン・マシーンの活動を休止し、過去の自分のヒット曲を歌うというコンセプトでソロ・ツアー、SOUND + VISION TOURを大々的に行なう。
これぞファンの求めていたものであるというのが、この時本人も理解しただろうが、このツアーを最後に過去の曲は封印するという前宣伝通り、ツアーを終えた後、ボウイは再びティン・マシーンの活動に専念することになる。 そして1991年9月にバンドのセカンド・アルバム『ティン・マシーンII』が発表になる。
SOUND + VISION TOURで退路を断ったボウイは本格的にこのバンドを育てていくつもりであったのだろう。
巨大なスタジアムでワールド・ツアーを行なうという大規模な SOUND + VISION TOURに対し、ティン・マシーンは小規模な会場を中心に地道なライヴ活動を展開していた。
今となっては、数万人のスタジアムを埋め尽くす同じ人物が、数百人規模の会場でやらなければいけないところに、バンドとしての限界があった気がしてならない。
セカンド・アルバムに伴いIT’S MY LIFE TOURと題されたティン・マシーンのツアーが始まったのは、リリース直後の1991年10月のことであった。ツアー自体は北米や欧州をまわるもので、全 69公演という規模であった。しかし会場はどれも小さい箱が選ばれ、ツアー最終の地が日本であった。
日本公演の日程は以下の通り。

1992年1月29日 京都会館
1992年1月30日 大阪フェスティバルホール
1992年1月31日 大阪フェスティバルホール
1992年2月2日 九州厚生年金会館
1992年2月3日 メルパルクホール広島
1992年2月5日 NHKホール
1992年2月6日 NHKホール
1992年2月7日 神奈川県民ホール
1992年2月10日 北海道厚生年金会館
1992年2月11日 北海道厚生年金会館
1992年2月13日 仙台サンプラザ
1992年2月14日 大宮ソニックシティ
1992年2月17日 NHKホール

長期に渡り全国を北海道から九州まで隈なく回るというもので、会場名を見てわかる通り、2年前に東京ドームを満席にした男が、ここでも小ホールを選んでライヴを行なっている。
本作はこのティン・マシーン1992年の来日公演より、1月31日大阪公演を収録している。
この時点でティン・マシーンはアルバム2 枚分のマテリアルしか曲を持っていなかった。
そのためステージではカバー曲を演奏したり、あるいは毎日のようにセットリストが異なり、ファンにとってはどの公演もたまらないツアーである。
現在のようにパッケージ化されたツアーではなく、まさにバンド・コンセプトそのまま、即興性にあふれた何が出るかわからない生のライヴならではの楽しみが出来る、それがティン・マシーンのライヴなのである。

本作は、1992年1月31日大阪公演をサウンドボードで完全収録している。
一説によるとメンバーが流出させたと噂される音源で、なるほど素晴らしいサウンドボード音源はティン・マシーンの迫力あるハード・ロックの魅力が存分に楽しめるものとなっている。
ティン・マシーンのライヴを聴いて感じるのは、スタジオ録音では感じられないスピード感と音の厚みである。
ライヴではテンポを速め、ギター弾きまくりの唸りまくりで、音の壁が眼前に押し寄せるような感覚に襲われる。 キーボードの類がないにもかかわらずこの厚みある迫力はバンドとしての力量がいかに凄いかの証明であろう。 やはりティン・マシーンはライヴで聴かねばならない。
そしてもっとライヴでの演奏が浸透していれば短命でなくて済んだのではないか。 後に1992年のツアーからは『oy vey, baby』というライヴ盤が発表されたが時は既に遅し、かつ内容的にもダイジェスト感が強く、その魅力を伝えるには不十分であった。是非ここは、サウンドボード完全収録の本作でティン・マシーンの魅力を再認識していただきたいと思っている。

なおボーナストラックとして、本編で演奏されなかったレア曲を追加収録している。
まず同じ1992年来日公演より2月6日NHKホール公演から「Goodbye Mr.Ed」と「Cracked City」の2曲。
先にセットリストが毎日異なったと書いたが、この2曲は大阪では演奏していない。
そして1989年6月24日アムステルダム公演より「Working Class Hero」と「Under The God」の2曲。
この2曲はいずれもファースト・アルバムの収録曲で、特に前者はジョン・レノンのカバーである。
このぶち壊し方は当時話題になったものだが、ライヴで聴くとさらに重いアレンジが強調されているので、ぜひ聴いてみて欲しい。
さらに1991年11月7日グラスゴウ公演より3曲収録している。
そして最後のトラックは1989年6月29日ロンドン公演より「Now」という曲を収録している。
この曲がボーナストラックの目玉といっても過言ではない。ボウイがタイトルを「Now」と語っているが、これが何と1995年発表の「OUTSIDE」の原曲なのである。
実に遡ること6年前に既にティン・マシーンとしてステージで演奏していたという事実。
やはりティン・マシーンはボウイのソロの延長にあったことがわかる。ボウイはティン・マシーンをコンセプトはそのままにソロのプロジェクトで行なっていれば、また評価も変わっていたのかもしれない。

ティン・マシーンは商業的に失敗に終わったこと、そしてドラムスのハント・セイルスの薬物中毒がバンド継続に支障をきたすまでになっていたことから、この日本公演の後に自然消滅する。
しかしボウイがこの時期志向したサウンドは、依然としてボウイの原点であることに違いはなく、音楽的には満足していたのではないだろうか。
後のソロ・ツアーではギターのリーヴス・ガブレルスを帯同させ、今までのボウイにはなかった、まるでハード・ロックのようなサウンドをステージに反映させ、「ベイビー・ユニバース」をソロ・ツアーで再演するなど、ボウイがティン・マシーンで志向しつつも頓挫した音楽の形に一応の結論を出している。

本作はデヴィッド・ボウイがキーボードレスと即興性を重視し、ハード・ロックを志向して結成したティン・マシーンの、1992年来日公演をサウンドボードで完全収録している。
ボウイがバンドに求めたジャズのような即興性、それはスタジオ録音からは伝わってこない。
まさにナマモノであるライヴでこそ表出される特長であり、バンド・コンセプトの重要な要素のひとつでもあるので、やはりティン・マシーンはライヴを聴かねば本当の魅力は伝わらない。
さらにボーナストラックでは本編で演奏していないレアな曲を収録し、このタイトル1枚でティン・マシーンのライヴを堪能できる構成になっている。
美しいピクチャー・ディスク仕様の永久保存がっちりプレス盤。

FESTIVAL HALL OSAKA JAPAN January 31, 1992

DISC ONE
01. Debaser
02. If There Is Something
03. I've Been Waiting For You
04. I Can't Read
05. Baby Can Dance
06. Betty Wrong
07. Stateside
08. Go Now
09. Shopping For Girls
10. Sacrifice Yourself
11. You Can't Talk
12. Baby Universal
13. Bus Stop

DISC TWO
01. You Belong In Rock And Roll
02. Heaven's In Here
03. One Shot
04. Sorry

NHK HALL TOKYO February 6, 1992
05. Goodbye Mr.Ed
06. Cracked City

PARADISO AMSTERDAM June 24, 1989
07. WORKING CLASS HERO
08. UNDER THE GOD

BARROWLANDS GLASGOW November 7, 1991
09. A Big Hurt
10. Pretty Thing
11. You Can't Talk

NATIONAL BALLROOM LONDON June 29, 1989
12. Now

 

 

CLOSE

 

GO TO TOP

Copyright(C) - Phantom On-line - All Rights Reserved.